「UFOが釧路に降りる」(村上春樹 著「神の子どもたちはみな踊る」より)の物語の意味を解釈しました

村上春樹さんによる短編集「神の子どもたちはみな踊る」の中の最初の物語、「UFOが釧路に降りる」の解釈をしてみる。

物語は1995年(平成7年)1月17日(火)5:46:52に発生した、兵庫県南部地震を契機に展開していく。
地震発生後から、妻はテレビから流れるそのニュースを5日間ずっと見続ける。夫である小村が声をかけても全く反応は無い。5日後の日曜日、小村が仕事から帰ってくると妻の姿は消えていた。

ここで、なぜ妻は出て行ったのかという疑問が湧く。地震のニュースが流れるテレビを見続けた結果、離婚に至るとはどういうことなのだろうか?地震と離婚の間には何らかの関係はあるのだろうか?小村は(因果関係は)「たぶんないと思う」と、シマオさんと佐々木ケイコに言うが、小村が気づいていないだけで、関係があるのではないか、と彼女らは言う。

彼女らは、例として、サエキさんの話を持ち出す。サエキさんの妻が去年の秋に野原に降りてきたUFOを見た話。その後、サエキさんの妻は子どもと夫を残して戻ってこなかった。UFOの宇宙人にさらわれてしまったのかもしれない。

もうひとつ、これはシマオさんの経験した笑い話。短大生時代に付き合っていた彼氏と、山の中でセックスをすることになった。山の中は熊が出没するので、殺されないために熊よけの鈴を鳴らし続けなければならない。だから鈴を交代で振りながらセックスをした。

鈴を鳴らし続ける、という行為はこの物語の中で重要な意味を持っていると思われる。それは命をつなぐための行為だということ。命をつなぐというのは生きるという根源的な営みである。シマオさんたちは、鈴を鳴らし続けたことで、今も生きているのだ。

対照的に、小村の結婚生活には、鈴を鳴らすという実体の伴う行為が存在しなかったのではないか。
彼の夫婦生活には、一見これといって何か問題があるようには見えなかった。
妻が、たまに実家に帰りたがる以外は。それでも実家で一週間程過ごすと機嫌を戻して帰ってきていたので、特に大きな問題がそこに潜んでいるとは二人とも気付いていなかった。

ちなみに、故郷と都会は対比されている。生と死の対比である。

生:鈴を鳴らすこと、故郷(生まれた場所)
死:都会、表面的で空っぽ、中身のない感じ、小村、骨箱

妻が実家に帰りたがる理由は、東京での生活に違和感、ストレスを感じていたからだ。彼女自身、なぜ自分が実家に帰りたいと思うのか、明確には理解できていなかっただろうと思う。
小説にも書かれている通り、時代はバブル期。「経済は活況を呈し、土地の値段は上がり、日本中に金があふれていた。誰の財布にも一万円札がぎっしり詰まっていて、みんながそれを片端から使いたがっているように思えた。商品は高価なものから順番に売れていった

バブル時代には、その名が表す通り、実体を伴わない虚構が東京を覆っていた。小村が飲むコーヒーが「薄くて、味がなかった」のは彼の暮らしが虚構でできていることを象徴している。「コーヒーは実体としてではなく、記号としてそこにあった」。

妻は、気づかぬうちに、そんな虚構が覆う東京での生活に違和感を感じていた。テレビで地震をニュースを見ていて彼女が見せつけられたのは、人が生きていくということそのものだった。命をつなぐために人々は懸命だった。生きるという根源的な営みがそこにはあった。彼との結婚生活にはなかったもの、それに彼女は気づき、離婚を決意する。書き置きには「あなたの中に私に与えるべきものが何ひとつない」、「あなたとの生活は空気のかたまりと一緒にくらいしているみたいでした」とある。妻にとって、小村自身にも実体が無かったのだ。空気のかたまりのように。

小村は結婚してからは、結婚前の「死や性病や宇宙の広さに案じていた日々」を送る必要が無くなった。奇妙な夢に眠りを妨げられることもなくなった。
これは、小村が生きることをやめたことを意味する。表面上生きていただけだ。「性的なスリルに対する欲望」のあった日々には、彼は確かに生きていたが、妻との結婚を契機に死んでしまった。だから生きる上での悩みは実体としては消えた訳ではないのだが、彼には見えなくなっていたに過ぎない。

同僚の佐々木から、「骨箱」のような10センチ四方の小さな箱を北海道にいる妹、佐々木ケイコに渡すよう小村は頼まれ、北海道に行くことになる。空港に着いたら、ゲートのところでその箱を持っていれば、妹にもそれが目印になって小村が分かるとのことだった。
しかし、小箱を出しておくのを忘れていたにも関わらず、佐々木ケイコとシマオさんは、小村のことが分かってしまう。
なぜだろう?それは、小箱に何が入っていたのかということと関係する。

小箱は振っても音はしない。何が入っているのか小説内では明かされない。
シマオさんは、「小村さんの中身が、あの箱の中に入っていたからよ。小村さんはそのことを知らずに、ここまで運んできて、自分の手で佐々木さんに渡しちゃったのよ。だからもう小村さんの中身は戻ってこない」と小村さんに言う。小村さんはここで激しい怒りを感じることになる。
シマオさんは、冗談だと小村をなだめるが、シマオさんの言ったことは真実である。小村さんは、妻が「あなたとの生活は空気のかたまりと一緒にくらいしているみたいでした」と言うように、空っぽだった。あの箱の中には、何も入っていない。つまり空っぽだったのだ。だから小村さんの中身が入っていた、というのは、何も入っていない、という意味だから、間違いではないのだ。

では、なぜ空港で、目印もなく、佐々木ケイコとシマオさんが、小村のことが分かったのか、という疑問に戻ろう。それは、小箱も小村も空っぽ、すなわち、小箱=小村、であることを示唆しているということだ。箱は小村自身のことである。だから、小村(=箱)を見ただけで彼女らは、小村のことがわかったのだ。

また、小説内で小箱のことを「骨箱」と表現されているが、骨箱とは遺骨を入れる箱のことである。これは、空っぽだった自身との決別を意味する。小説の最後にシマオさんが「でも、まだ始まったばかりなのよ」と言う。過去の彼自身への決別と、何かしら良い方向に彼自身が変わり始めたことが感じられる。

地震によって、多くの命が奪われたが、それまで蔓延っていた実体のない空虚なものごと、あるいは空っぽだった彼自身が、未来に向かって良い意味で変わっていく契機になり得るという、良い面をこの物語は照らしている、と感じた。

ところで、北海道という場所は村上春樹さんの小説において重要な意味を持つ場所だ。そういう観点で今度作品を読み返して見たい。

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