この物語は、一言で言うと、憎悪の連鎖を断ち切る物語である。
あらすじ
主人公は甲状腺の研究医。再婚したアメリカ人とうまくいかずに離婚。以前は「あの男」と結婚していた。
アメリカでは離婚後、彼女は日本に戻ることにした。
バンコクで開かれる甲状腺会議に参加し、そのあと数日間バンコクに残って休日を過ごすことにする。休日の案内人はニミットという男性。彼とのやりとりで、物語は進んでいく。
彼女は再婚したアメリカ人の夫と数年前に離婚した。「いちばん決定的だったのは、君がこどもをほしがらなかったことだ」と夫は言う。
彼女はなぜこどもを欲しがらなかったのだろうか。
p.129 あなたが私の人生に対してしたことを思えば、私の生まれるはずだった子供たちに対してしたことを思えば、それくらいの報いがあって当然ではないか。
p.129 うさぎの夢を見た。短い夢だ。金網がはられた小屋の中で一匹のうさぎが震えている。(略)目が覚めてからも、口の中にいやな後味が残っていた。
同じような内容の記述がp.138にもある。
p.138 彼女に見られていると、狭い部屋に入れられて逃げ場を奪われてしまった小動物のような、落ち着かない気持ちになった。気がつくと彼女は身体中に汗をかいていた。顔が火照り、息づかいが荒くなった。バッグから錠剤を出して飲みたかった。
男に暴力を振るわれた体験は、彼女を深く傷つけたことが推察される。口の中のいやな後味とは、血の味ではないか。小動物とうさぎは彼女のことだ。
p.143 生まれなかった子どものことを思った。彼女はその子どもを抹殺し、底のない井戸に投げ込んだのだ。そして彼女は一人の男を三十年間にわたって恨み続けた。
彼女は恐らく、男の暴力によって、流産してしまったのだろうと思われる。
そして、p.129の「生まれるはずだった子どもたち〜」と複数形になっていることから、彼女は流産しただけでなく、もしかしたら生まれてきていたかもしれない子供たちを産めなくなった、すなわち子どもを産めない体になってしまったのだということが読み取れる。
アメリカ人の夫の発言を見ると、彼女は過去にあったことを彼には伝えていないことがわかる。彼女は自分の過去を誰にも話さずに自分の中に抱え続けていたのだ。
過去の出来事は彼女に大きな精神的ダメージをもたらした。それで、アメリカ人の夫ともうまくいかなかった。
そして、更年期が子どもを産めないという事実を決定的なものにした。
「あなたはゆるやかに死に向かう準備をなさらなくてはなりません。」ニミットは彼女に言う。生を繋げることができないことが決定的なものになった今、何かを変えなければならないという意味のことを彼は彼女に伝える。
彼女はニミットに連れられて、地元の霊能者を訪れる。彼女の中には白い石があると霊能者は言う。そして、夢の中に緑の蛇がでてきて、その石を飲み込んでくれると言う。だから蛇がでてきたらその蛇を逃げないようにしっかりと掴んでいるようにと。
夢を待つのです。と。
石とは何か。それは憎悪のメタファーだ。それは、彼女に暴力を振るった男に対する憎悪であり、父親のレコードを無断で捨てた母親に対する怒りである。
初めは母親に対する怒りから始まり、結婚後は男に暴力を振るわれ、再婚後もうまくいかなかった。元をたどると彼女から発せられた怒りによって、ものごとは良くない方向にすすんでいったように見える。怒りや憎悪が連鎖してきたように見える。
彼女はその男のことを、ずっと憎しんできた。霊能者は言う。
「そのひとは死んでいません。傷ひとつ負っていません。それはあなたの望んだことではなかったかもしれませんが、あなたにとってはまことに幸運なことでした。自分の幸運に感謝なさい」
憎んできた男が震災によって死なず、生き続けていることが、なぜ彼女にとって幸運なのか。
それは、もし仮に男が死んでいたら、憎悪の物語が完結してしまうからだと思う。彼女から端を発した憎悪の連鎖が、男の死によって完結してしまう。彼女の人生は憎悪の連鎖で完結してしまうことになるのだ。
「ある意味では、あの地震を引き起こしたのは私だったのだ。」
男を憎んでいた私があの地震を引き起こしたということになると、私は殺人者であり、憎悪の物語は男の死をもって完結してしまう。そこには救いはない。
男が生きているのであれば、まだ救いがある。憎悪の連鎖を止めることができるかもしれないから。
言葉は石になる、と霊能者は言う。彼女の憎悪は言葉によって形成されてきた。憎悪の物語と対照的な存在として、夢を待ちなさいと霊能者は言う。
年に一度だけ交尾を行う北極熊の話を、ニミットは彼女にする。
北極熊は何のために生きているのかと当時の主人にニミットは問う。「じゃあ私たちは何のために生きているんだい?」
私たち、とあるので、ニミットと主人は同性愛の関係にあることが推察される。生を繋ぐことだけがこの世の人生の目的であるとするなら、彼らに生きる意味はなくなってしまう。
逆に言うと、それだけが人生の意義ではないということを、ニミットは彼女に共有したかったのではないか。
悪い物語を断ち切る「夢」を待つこと。日本への帰りの飛行機で彼女はあれこれ考えるのをやめて夢を待とうと決意し、深い眠りに落ちる。彼女の元には必ず夢が訪れるだろうという希望が感じられた。
冒頭の、バンコク行きの飛行機の中であれこれ考えている主人公との対比が映えている。
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