原発事故と生活

原発事故は人々の生活の基盤を奪った。人々の土地を、景色を、人との繋がりを、安全な食べ物•水を、新鮮な空気を、人々の生命を、精神的な安定を、人々の理性を、日本という国家の根底を、奪った。あってはならないことが起きてしまった。
奪われた人々が感じる憎しみ、悲しみ、怒りはどれほどか。
一方で、私たちはこれから先、生きなければならない。事実から目を背けずに事実を直視し、その上でどのような生活をするかは、その人の価値観、何を大切にして生きるのかという価値判断に基づいて決定されるべき、人の生き方に関わる問題だ。だからどのような生き方が正しい、正しくないと他人に強いることは人はしてはいけない。ただ、どのような生き方を選択するにせよ、誰にとっても事実を直視することは大切だ。
事実から目を背け、余計なことは考えずに、今目の前にある一見平和に見える生活を享受できれば良いと思って生きることはあるべき姿とは言えない。何故なら、事実から目を背けるという態度でいると、正しい情報がわからないために、気付かぬうちに周りの人々にまで危険に晒すことをしていることがあるからだ。例えば、今や日本の太平洋側の海岸は放射能で汚染されているが、その事実を知らずに自分の友人たちを誘って海水浴に行ったとして、その誘うという行為は結果として友人を大変な危険に晒すことに繋がる。
だからどんな生き方をするにせよ、前提として事実を正しく把握することは誰にとっても必要なことだ。
目を背けたくなる事実を直視すること、それは気分のいいものではない。それは自分の今まで生活してきた根幹を揺さぶるからだ。今までの生活が壊されるかもしれない、そんな事実を受け入れるのはとても辛いことだ。しかし今の日本の状況下ではその事実を絶対に直視しなければならない。自分と自分の周りの生命に関わる重大な問題だからだ。
事実を直視した上で、たとえば本来であれば避難しなければならないような危険な土地に、敢えて住むという選択をすることは、その人の生き方に基づいてなされた選択であるから、誰もその選択が正しいとか正しくないとか判断してはならない。危険であるという色々な事実を直視しした上で、それでも危険な場所に住むという選択をした理由がその人にはあるはずだからだ。逆に安全な場所に移住するという選択をする人もいるだろう。いずれの選択に対しても人々は正しい、正しくないの判断をしてらならない。何れの判断をしたとしても、その人にとって正しい選択であれば良いのだ。繰り返しになるがその選択の前提としては誰もが事実を直視しなければならない。
「食べて応援」というねじ曲がった良心を人々に強いるような風潮が日本にはある。食べなかったら福島の農家の人がどうなってもいいのか、福島の復興はどうでもいいのか、という声が聞こえてきそうだ。食べて応援を支持する人は良い人のお面を被った人殺しだ。何故、人々が自分の体が癌になる程の危険をさらさなければならないのか、人の命をなんだと思っているのか、と怒りが湧く。
本来であれば、生活ができなくなった福島の農家に対しては国が生活のためのお金を援助し、面倒をみるべきだ。そして危険な場所から人々を退避させるべきだ。国が責任を取るべきところを、国は人々に生命の
危険に晒すことを強いて、人々にお金を工面させようとしている。
国がやるべきことをやらないから、危険なものを、危険だという単純なことを、声を大にして喋ることが出来ないという歪んだ風潮が今の日本にはできてしまった。
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