おいしい空気

私は、毎日、福島原発から放出された、降り始めの雨のような匂いの、トリチウムが含まれた空気を、胸いっぱいに吸っている。
人が自分に当たったのではないか、顔を撫でた風はもしかして何者かの手なのではないか、電車の窓ガラス越しに目のあったサラリーマンが怒ったのではないか、目の下が痙攣して僅かにピクっと動いたのは、誰かが触ったからではないか。一秒、一秒、異なる数多の疑念たちが、私にまとわりつく。
隣に立つニンゲンが吊革を掴む手が、顔のすぐそばにあり、それは私の内奥を貫くように感じる。まるで常に弾丸の入った銃の銃口を突きつけられているような。吊革を掴む手が無くなっても、何故だかその感覚は残り続け、常に胸の辺りが圧迫されているように感じ、息を吸っても上手く肺に空気が入っていかないようで、とても苦しく、とても不安であり、とても苛立っていて、今にも自分が崩壊しそうな予感がする。冷や汗が身体中から噴き出し、背中が痒い。頭が、異常なまでの恐怖と緊張に対応できずに、オーバーヒートしているようだ。数カ月前に行った精神科からもらった診断書に書かれていた病名、神経症、すなわちノイローゼが、まさに今の自分の状態を表していると思う。頭が狂っている。
毎日、私は本当に辛い。耐えられない。胸の辺りの圧迫に、不安に、苛立ちに、そして、それらが一緒くたになって作り出す、自分の中の得体の知れない悪魔に。もう半ば、人格は崩壊しつつあると感じる。唾を飲み込んだ拍子に、喉の辺りに鈍痛を覚えると、もしかして癌になったかもしれない、と嬉しく感じている自分を発見する。そうすればこの日々の苦しみから解放されるかもしれないという淡い期待が仄めくからだろう。
私は放射能まみれの空気を、肺にたくさん吸い込み、生きていきたい。あの感傷的な梅雨の香りを放つ空気を。ジメジメとした、悪魔の好みそうな、空気を。そして癌や白血病にでもなって、亡くなりたい。

或いは、満員電車に詰め込まれずに済み、なにからも縛られずに、自然が溢れ、静寂に包まれ、鳥の鳴き声や風の音に耳を澄ませる場所で、生きたい。

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