「アイロンのある風景」(村上春樹 著「神の子どもたちはみな踊る」より)の物語の意味を解釈しました

神戸南部地震の1ヶ月後である1995年2月の或る日の深夜、三宅さん、順子、その彼氏である啓介の3人で焚き火をするという物語。

家出をして茨城県の海外の小さな街で暮らしている順子。
妻と子どもを神戸に残し、5年前からこの街で暮らしている三宅さん。
この二人は焚き火を介して繋がっている。三宅さんにとって焚き火はライフワークだった。流れてくる流木が多いというのが、この街に住んでいる理由だと彼は言う。

何故順子は家出をしたのか。
一言で言うなら、順子は父親から受け入れてもらえなかったからだ。小さな子どもの頃は父親と仲が良かったが、彼女が身体的に成長するにつれて、父親は奇妙な視線で彼女を見るようになり、しまいには声をかけてこなくなった。彼女という人間は父親に受け入れられなかった。そのことは順子の心に深い傷を残した。

順子は焚き火を前にして思う。
そこにある炎は、あらゆるものを黙々と受け入れ、呑みこみ、赦していくみたいに見えた。ほんとうの家族というのはきっとこういうものなのだろうと順子は思った
父親から変な目で見られ、受け入れられなかった順子のいた家庭との対比をこの文章は暗示している。
また、焚き火は暖かいほんとうの家族のメタファーだということが示されている。
また順子は、焚き火から、現実的な重みを持った生々しい感触、深いもの、を感じたことからも、それが推察される。

深夜の海岸で焚き火をしているときに、順子に尋ねられて三宅さんは言う。自分には妻と子どもがいて、神戸の東灘区にいるのだと。そして三宅さんは、自分がどんな死に方をするか考えたことがあるかと順子に尋ねる。

三宅さんの家には冷蔵庫がない。コンビニに朝、昼、夕と通う理由もそのため。
自分が冷蔵庫に閉じ込められて、少しずつ消耗して、長い時間をかけてゆっくり死んでいくという悪夢を頻繁に見るから家に冷蔵庫が置けなくなったのだという。

また、三宅さんは作家のジャックロンドンを引き合いにだし話す。彼はあやまって夜の海に落ちて、誰にも気付かれぬまま溺れて死ぬと思っていた。実際には彼は大麻を吸って死んだが、ある意味では彼は間違っていなかったと三宅さんは言う。「アルコール中毒になり、絶望を身体の芯までしみこませて、もがきながら死んでいった
そして、彼はこう続ける。
「(略)予感というのはな、ある場合には一種の身代わりなんや。ある場合にはな、その差し替えは現実をはるかに超えて生々しいものなんや。(略)」

三宅さんの妻と子どもたちは、恐らく震災で死んでしまったのだろうと思う。三宅さんの悪夢の身代わりが、彼の妻と子どもだったのだ。彼らは、三宅さんの悪夢から連想されるような死に方をしたのではないか。倒壊した建物や瓦礫の下敷きになり、生き埋めになりながら少しずつ消耗していき、最後には亡くなってしまったのではないだろうか。

三宅さんはいう。「死に方から逆に導かれる生き方というものもある」

三宅さんは、妻と子どもたちの死から導かれた生き方をしていると思われる。
自分のことを「アホの王様」と言っていることから、妻と子どもに対して、何らか後悔の念を抱いているように思えた。

アイロンのある風景とは何か。
三宅さんはアイロンのある風景、という絵を3日前に描き上げた。アイロンは本当はアイロンではなく、何かの身代わりだという。
アイロンは、かつて妻と子どもたちといた神戸の家庭での日常を表しているのではないか。もう妻も子どもたちも、この世にいない。また、当時の日常も今やもう世界のどこにもない。だからアイロンをメタファーとしてそれらを表したのではないだろうか。

三宅さんと二人っきりになって、順子は、自分がからっぽなのだと告白する。
本当にからっぽなのだと。
それは、父親から自分という存在を受け入れてもらえなかったから、自分を持てなかったということなのだと思う。三宅さんの肩に持たれながら、涙が止まらない順子。父親に受け入れてもらえなかったことが、本当に深い心の傷になっていたのだということがわかる。

焚き火の温かみ、すなわち家族のような、何か受け入れてくれるような感じのする温かみの中、順子は三宅さんに完璧ではないものの、家族のような存在を少しだけ感じているように思えた。

からっぽなのに、どうしたら良いのかと順子に問われ、三宅さんは、一緒に死ぬか?と尋ねる。本当かと念を押すと、本当だよと、順子はこたえる。焚き火が消えるまではとりあえず待とうと、三宅さん。
そのタイミングでちょうど眠くなってきた順子。焚き火が消えたら起こしてと、三宅さんに頼むが、三宅さんは言う。

心配するな。焚き火が消えたら、寒くなっていやでも目は覚める

目が覚めたら、その時は確かに死んでもいいと思っていたものの、必死に生きていくことになるということを、その言葉は暗示している気がした。ちょうど、ジャックロンドンの「焚き火」の中で、主人公は基本的には死を求めていながらも、生き残るために全力で闘ったように。その矛盾性に順子は惹かれていた。そしてその物語の最後が静かで美しいことから、順子の未来にささやかな光が見えた気がする。

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